東名遺跡全景
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東名遺跡所蔵穴
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東名遺跡網籠
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 縄文時代早期、約8000年前の国内最古の湿地性貝塚である佐賀市の東名(ひがしみょう)遺跡が発見されました。精巧な技術を駆使した740点もの編みかごなど当時の生活水準の高さを示す最古級遺物が次々に見つかったのです。縄文時代の貝塚や遺跡というと東日本を連想しがちですが、東名で集落と貝塚、貯蔵施設がセットで出土したことにより、より詳細に生活実態が判明、縄文時代早期のイメージを一新する契機となりました。

参考WEBサイト→古墳めぐりin福岡

■ 縄文早期は西日本が先行か

 九州など西日本の有名な遺跡は弥生時代以降がほとんどで、縄文は東日本が中心と一般的に受け取られてきました。これは7300年前に起きた巨大噴火の影響が大きいと考えられてきたのです。鹿児島県沖約50キロにある海底火山の鬼界カルデラが大規模な噴火を起こし大量の火砕流を噴出。鹿児島県や宮崎県南部を覆い、火山灰はアカホヤ火山灰と呼ばれ、朝鮮半島や東北地方南部にまで飛んだのです。このため九州の縄文文化は壊滅的な打撃を受けたとされてきました。しかし、東名遺跡が発見されたことで、宮坂貝塚(鹿児島県)や宮崎市の跡江貝塚や柏田貝塚など同時代の貝塚が改めて見直され、縄文早期は西日本が先行していたことを補足する資料となりました。また各地の地中には貝塚が眠っていることもわかり、歴史的な意義は大きいと言えるでしょう。

縄文時代の海進〜弥生時代の海退
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縄文時代遺跡と弥生時代遺跡分布
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参考文献:下山正一他(1994)「有明海北岸低地の第四系」
『九州大学理学部研究報告地球惑星化学』第18巻第2号
九州大学理学部
 

 西から東に細長く横たわる日本列島の中で南に面した平野は佐賀平野、濃尾平野、関東平野、などがありますが中国に最も近いところを考えると佐賀平野でしょう。
 北に脊振の山をひかえ、東に九州一の大河筑後川、西には多良岳の森を見て、南前面に日本一の干満の差があり、干潟が広がる有明海。まさしく風水の理にかない世界の四大文明発祥の条件にも適合した佐賀平野。いわゆる北部九州、筑紫平野と言われていますが、一番中心のこの佐賀平野に中国の文化が次々に到達し、さらに徐福の事件によって、決定的に新しい文化が移入されて弥生が花開いたと考えてもおかしくはないのではないでしょうか。
 吉野ヶ里の発見は、まさしくそれを実証するものであり、本格的な稲作により生活が安定し、さらに支配者と労働者の身分の確立も進み、国の成り立ちが見えるものとして位置づけられています。

 
 
徐福船団が有明海へ「弥生の夜明け」

 今から二千二百年前(紀元前210年)の十二月上旬、初冬の有明海は小春日和の陽光が、浅い海にキラキラと光り輝くうららかな海であった。その青い海の沖合いに突然異変が起こった。中国古代の大翼船十数隻の巨大な楼船の船団が、姿を現わしたのだ。
 先頭の船に飾られた「徐」の字の旗を見ても、まぎれもない中国の江南からの徐福船団の噂に違わぬ日本列島への渡来の風景であった。風説では徐福をリーダーとする中国からの大規模な渡来集団が有明海にやって来るとの噂であった。その噂が事実になったのである。
 佐賀平野の縄文人たちは、今までに少人数ではあるが中国から王族などの渡来人の集団移住を、数回経験していた。しかし、これほどの大船団は縄文人にとっても大きな驚きであった。だが、この大船団が弥生時代の息吹となるとは、この時だれも予想しなかった。
 徐福船団はなぜ、有明海沿岸の佐賀平野に渡来してきたのか。それは中国の史書に書かれているように、徐福は不老不死の仙薬探しと同時に、日本列島のどこかの平原広沢に適地を求めて弥生のコメを大増産し、その地に王道楽土のクニをつくろうと夢みていたからであった。徐福はこの時、既に起こっていた地球寒冷化のため生じた有明海の弥生の小海退で、佐賀平野に水田稲作に好適の広大な低湿地ができているとの情報を事前に察知していたのである。
 しかも徐福の故郷の江淮地域と佐賀平野とは「北緯33度」で地形も気候条件も全く相似ていることも知っていたので、リーダーの徐福も徐福船団の乗組員全員も「ここはわが故郷そのものだ」と叫んだことであろう。
 沖合の徐福船団(恐らく十六隻)の巨船に向かって急ぐ出迎えの水先案内の小船には、徐福上陸地の石碑がいま立っている佐賀郡諸富町浮盃地区の縄文人の水夫らが乗っていたが、この直後に日本の歴史を彩る日中の古代文化交流の第一幕の劇的な出会いが、有明海の船上で日中双方とも予期せぬ形でその幕を開け、この徐福の渡来が日本に新たな時代の門戸を開いたのである。

〜内藤大典著:「吉野ヶ里と徐福」より〜
時代別遺跡分布
 

縄文時代早・前期の集落図
縄文時代中・後期の集落図
縄文時代後期後半〜晩期の土器棺墓
弥生時代早・前期〜中期初頭の集落図

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